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『母という病』

母という病』を読みました。

母問題の枠組みは「知ってるつもり」だったし、今さら感がぬぐえなかったのですが、今読めて良かったです。

ADHDなどの発達障害と、幼少期の母子関係との関連についても書いてありました(全体的にちょっと極端な記述が多いので真偽はわかりませんが・・・)。

スピリチュアルの分野での親問題の捉え方では、まず、親に反発して自己を肯定・確立するフェーズがあり、、、、最終的には親に感謝する方向へ、、、そこまでいって初めて、本当に癒され、自分らしく生きられるようになるといいます(私の理解)。ちゃんとそのあたりまで、簡潔ではあるけれど、カバーしている本でした。

親への怒りは、こう書いているとまだ燃えたぎっているように思われるかもしれませんが、以前にくらべればかなり静まっていて、ピーク時に比べれば「ない」も同然なのです。だからこそ、わたしはもう「癒された」ことにして、親に感謝するフェーズに一足飛びに行きたかったんだと思うのです。

それがここ半年くらいかな・・・・・・。

うまくいきませんでした。

自分の中で、絶対にそっちへ行かせまいとする、もうひとつの大きな力が大きくなってきていて、引き裂かれるような違和感。その象徴が、小さいころからずっとある「消えたい」という気持ちで。

p250の「死にたいと思う気持ちを克服するためには」あたりから最後までの数十ページが、今の私には有益でした。
死にたいという人の心の中には、お前なんか死ねと自分に言い続けるもう一人の自分がいる。
死にたいと思うのは、親に愛されない、認められない自分なんか無価値だと思うからだ。
(中略)
死にたいと思うのは、親にまだ支配されているからだ。お前なんか死ねと、言い続けるのは、親に支配された自分自身なのだ。

母という病』p250


消えたい気持ちが出てくるというのは、まだ、自分の内側に「支配する親」を入れてしまっているよ、というサインだととらえればいいのかも。
 

「親不孝」になってみることだ。親を一度蹴飛ばしてしまうことだ。それは、つらく悲しいことだが、そのプロセスなしでは、前に進めない。そんな自分に縛られなくなったとき、回復へと歩み出している。本当の自分へと、大きく近づいている。
親から自由になったとき、親をもう一度愛せるときがくるかもしれない。

同 p255


もう距離を置いて久しいし、正面対決もしたことあるし、十分「蹴っ飛ばしてきた」つもりだったんですね。もうそのフェーズは「終わった」ということにしたかった。でも、なんというか、目に見える部分で「やったよ」で終わることじゃなくて、本当に深いレベルで「ケリ」を付けるということなんだな、と。

本当は親を愛したいし、許したいんだけど、そのためには一度、(そのままの私を認めようとしない)親に認められるために、いろいろつくってきた、嘘で塗り固められた自分を打ち捨てなくてはならないみたい・・・・・・怖いけど・・・・・・

このままのペースで書いていると、全然終わらないので、覚えておきたいことを箇条書きに。

・勇気を出して「理想の自分」を放り出す。「良い子」をやめる。
・「良い子」に未練があるのは、親に愛されたいから。
・「良い子」の自分に縛られる限り、親の支配を脱して自立した大人になることはできない。
・百点を求めないこと。百点を求めていたら九十九点でも不幸になってしまう。
・五十点くらいが、人間らしくて一番いいと、発想を切り替える。百点は不自然。
・完璧を求めるのは、思春期までで十分。大人として円熟するということは、完璧へのこだわりを卒業すること。
・愛着の傷を修復する作業は、肝心の母との間でやるのは一番難しい。パートナー、友人、カウンセラーなど共感的な第三者との間で愛着の傷を癒すのが現実的。
・安全基地となって支えてくれるパートナーに出会えた人は幸運。しかし愛着は相互的なもの。一方的に甘えるのではなく、自分も相手の安全基地となるよう努力することが大切。
・対人関係のパターンや基本的安心感、基本的信頼感といったものは、愛着形成が行われる一歳から一歳半くらいまでの乳児期の間にほぼ決定される。
・アジア系の子どもは、欧米系の子どもなどに比べて、不安の強い遺伝子タイプの持ち主が多く、母親の関わりの影響を受けやすい(白人は、鈍感なタイプが六割、日本人などのアジア人種は、割合が逆で、三分の二が敏感なタイプ)
・「与えられなければ与えてみる」
・親が安定した愛着を育んでくれなくても、自分が誰かを愛し、その存在と安定した愛着を育むことができれば、自分が抱えている愛着の傷を癒し、不安定な愛着の問題を乗り越えることができる。

この最後の部分が、一番印象的で、嬉しかったです。

私は、親になるのが怖かったのですね。絶対に母親と同じ事をしたくないのに、してしまいそうだったから。

事実、この本にはその恐怖には生物学的根拠もあるとも書かれているのです。

幼い頃に愛されなかった女性では、オキシトシン受容体の数が増えず、オキシトシンの分泌も悪いんだそうです。出産の際にオキシトシンが大量に放出されて、母性愛のスイッチが入って、母性的な献身が喜びに変わるはずなのですが、オキシトシン受容体が少ししかないと、お乳を与えたり、子どもの世話をすることがよろこびとはならず、苦痛に感じられやすいのだそうです。。。

うわー、私、きっと、身体的に不利じゃん!!!と思うのですが。

でも、まずはパートナーとの関係で、愛着を活性化させていくことで、そして子育てを通して(めっちゃ大変だろうけど・・・)自分も育てていける道があるのだなぁ、というのは、救いでした。

そして、やはり親子問題は連鎖するな、、、と。母方の祖母もまったく母性的でなかったし(孫の私でもいわゆる「可愛がってもらった」記憶がない・・・)、父方の祖母も同じ。

連鎖は、断ち切る!

 
岡田 尊司
ポプラ社
(2012-11-02)
コメント:母という病の概要、それを乗り越えて両親に感謝できるようになるまで

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親問題の集大成の時期なのかも

いろいろと大詰めで、煮詰まってきたなぁと思います。

最近、数十年前からの自分改善計画で企んできた「〜しなくちゃ」「〜したほうがいい」というのを、ほぼ、やりきった!と思います。1人暮らしを始めた直後に生活費を突っ込んでの「話し方教室」にはじまって(雑談の仕方を知りたかった。今は大分雑談できるようになったけど、純粋に楽しいとはまだ思えてないな―)、本当にいろいろやってきた。何をやるといいか、という部分についてはキネシオロジーが助けてくれました。

やってみて、挫折して、後ろを振り返ると、夢の残骸の山ね。

もちろん、今でも、やったほうがいいことは、たーくさんある。でも、(とりあえず今は)全然やる気になりません。「生きていていい、という感覚が持てない」という、私の根本的問題に、今、戻ってきて、その状態で、自分にムチ打って頑張らせても、どうせ、また鬱状態になるのがわかりきってるなぁ、と。

このあたり、「やることがあれば」忘れられるので、「〜をやろう」と動くフェーズだったこの10年以上(?)ずいぶん長い間フォーカスしていなかったけれど、今、あえて見させられてるのかもしれません。というよりも、今だから、向き合えるのかもしれません。

先日受けたhidaさんのキネシのワークで「早寝早起き」するといいよ、と出たけれど(もう何度目か分からないくらいね)、ほんと、それをやろうとすると「消えたい」に直面する・・・。

前にも書いたけど、「安静」にたえられないのです。死にたくなる・・・。特に午前中。

さっき、「人として最もレベルの低い意識は? 奈良記その6|マワリテメグル〜人生は旅〜」という記事を読んで深く納得したのだけど、(キネシオロジーで意識レベルを測定した)『パワーか、フォースか』の本によると、低い意識ワースト3は「恥」、「罪悪感」、「無感動」で、私の物心ついた頃からのテーマがまさに、その3つだったなぁと。

実家の地域に「家」や「恥」の概念が強かったのも大きかったんだな、と、上の記事を読んで、気づきました。母親から怒られるときって、ほとんどが「〜するなんて恥ずかしい」という理由でした。今思えば、「母親が」恥ずかしいんですよね。。。子どもの頃は、言葉どおり、「私が」恥ずかしい人間だと、受け取っていました。

わたしが自分のことを「(どこに出しても)恥ずかしい」存在だと思っていたことと、ずっとこの世から消えたかったことは、つながってるんだな、と今気づきました。

さらに、その「恥ずかしい」自分であることに「罪悪感」・・・。そう、罪悪感もめっちゃ強い!!!自分を等身大に(いいことも悪いこともそのまま)話せる人ってすごいなぁと思うのです。私は自分のダメな部分についても罪悪感を抱くし、自分のいい部分についても(こんなの持っていて申し訳ない)と罪悪感を抱くから、そのまましゃべれないし、しゃべりたくないなーって思うんですね。

そして、幸せになる罪悪感、特に親より幸せになることの罪悪感も、確かにある、、、、、、

「生きていて申し訳ない」という感覚がどうしたらなくなるのか、どうやったら「生きたい」と思えるのか、というのが、いまだによく分かりません。。。。。。

何かに熱中しているときは、そういうことを考えなくてすむ、というのはずっと思っていて、仕事に忙殺されていると楽なのもそれで、もちろん、仕事は辛くてたまらなかったから、純粋に楽しみで熱中できるものをずっと探していたのだけど、たとえばキネシオロジーではそれがお洒落だよ、とか出るのだけれど、お洒落するのは今もものすごく抵抗がある。

結局、この世や自分に愛着を持てない以上、何にも愛着が持てないみたい。いろいろやったほうがいいことをやってみて、挫折しまくって、最終段階までいった今、もう、「〜をやったほうがいいよ」って、自分に言えない。人にも言えない、そういう点では人に少し優しくなれるかもしれないけど・・・・・・。

でも、そういう根本的なことがテーマとして浮上してきている間は、人を癒す仕事とか、難しいな、とも思います(タイミングとして、今、そこにフォーカスさせられている、という意味で、今後のことは分かりませんが)。

このあたりの感覚を(たぶん実体験としても)深く理解してくれているのが、例の「トラウマちゃん」の大嶋信頼さんだと思うので、根本的恐怖、を引き続き探っていきます。

とりあえず、眠らずに昼間起きて、意味があることをしないで、あー幸せだなぁ、と思えるようになることが今の目標だったりします。ブログを書くことは、数少ない、特に意味はないけれど、やっていて好きなことなので、今、書いてみました。

なんか、今、あえて見させられているということは、どっかでパッカーンと行くんじゃないかな、という期待もあり、です。
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「なんでも試してみたくなっちゃうんです」

私にしてはとても珍しい出ずっぱりの2日間が終わり、、、テンション高いうちに書いておこうかと。

昨日、2回目のスパルタ鍼灸院に行きました。鍼灸院の感想については、また後で書くかもなんだけど、これは、遅刻しそうになって乗った、行きのタクシーでの話。

フレンドリーなおばちゃん運転手が、「その鍼灸院いいの?」と聞いてきたので、簡単に説明したんですね。本来、舌は上顎についているものらしくて、、、でも私はそうなってなくて、それが身体の歪みの原因になってたりするらしくて、、、口に手を突っ込んで顎を広げてくれたりするんですよ!と。

「口に手を突っ込んで」って強調して言って、ちょっと笑ってもらえれば、くらいのサービス精神(?)のつもりだったんだけど・・・(そういう私の感覚は結構ズレてるらしい・・・たぶん、人とあまり会話をしてこなかったからだと思う。数をこなすしかないわ・・・)おばちゃんが急に真顔になって、「病院には行ったの?」って。「いやー、病気ではないんですよ」って言ったら、「騙されてない?大丈夫?」って、宗教にはまった芸能人の話に・・・・・・「だからね、病気でもないのに、そういうのには行かないほうがいいわよっ」

これまでの私だったら、勘違いの心配ウザッ!と内心思い(この時点で心のシャッター閉ざす)、顔ではにこにこして、口では「あー本当にそうですね!気をつけます!ありがとうございます」って、終わらせてたと思うのです(そして後からイライラ)。

でもきっと、そういうのが「嘘ついている」っていうことなんだなー、と。そう考えると、わたしは良かれと思って、いっぱい嘘をついて生きてる。良かれと思って、というのは、「調和」や「平和」って、そうやってつくるものだと本気で思ってたから>< でも、よそいきの「平和」を取り繕っても、結局後からイライラするんじゃ、まったく意味ないわ!

ちょっと勇気を出して「そーなんですよね。でも、私、つい、なんでも自分で試してみたくなっちゃうんですよ〜」と言ってみた。そうしたらおばちゃん「そうなのね〜。わかった。でも、もし危ないところだったら、お金払わずにすぐに出てくるのよ!あーもうおばちゃんがついていってあげたいくらいだわ!」そのとき到着してしまったので、心配してくれたことに感謝してタクシーを降りた。

本当は二度目なのに、どういうところか知っていて来ているのに、初めて行くかのように振る舞うっていう嘘はついた。でも、行きたいんだ、っていう自分の思いからズレないで、不快感に乗っ取られず、気分がいい「自分」のままでいられた。そして何より、心配してくれたことに感謝できたーーーーーーー!

お互いに赤の他人だからやりやすかったんだけど、母に対しても、こうできたらいいのにな、と思いました。

***

それにしても、「病気でもないのに、そういうのに行かないほうがいい」って、真っ当すぎてしびれた・・・。ある意味ね、私のスピリチュアリティに対する欲求(そうだ!これは欲だ!)って、整形手術にはまった人にも似てるな、と気づいたよ。

私はどうなりたいんだろうなぁと考えると、ただ「私でいたくない」んだと思う、いまだにね。私でいたくない、ここにいたくない、今にいたくない病。今、わたしがボディの調整に取り組む裏にも、まだ、まだ、そういう部分があるんだと思います。

それに気づいたうえで、でも、だからわたしはダメなんだよ、みたいに持っていくんじゃなくて、一瞬一瞬、自分を生きるってことなのかな。あ、自分を生きるって言うと、いまだに分からないけれど、「嘘をつかない」風に心がけることは、自分であることを肯定するのに役立つな、っていうのは、感じました。そして、『皮膚という「脳」 』にあったみたいに、触覚は五感の中でも嘘をつかないから、自分の体を触ることなのかな。

白か黒かじゃなくて、嘘っぽいときも本音っぽいときも全部自分なんだけど。全部ひっくるめて自分の一番コアなところと一緒にいれたらなー、(結構よくズレるけど)私はほんとはそっちを目指してるんだよ!という再確認。

なんだか今日書きたかったことは全然違うのだけど、書いているうちにめっちゃ寒くなってきたのでお風呂に入って寝ます・・・。
 
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境界線と総構えとスパルタ鍼灸院と触れること

昨日の夜、「ブラタモリ」で小田原城についてやっていて、「総構え(そうがまえ)」(リンクはWikipedia)というものを知りました。

つまり、小田原城には城を囲むお堀のほかに、城下町全体を囲む外郭(外側のお堀など)があって、城だけでなく、町全体が守られていた、というのです。小田原城がお手本になって、全国各地に広まったのでは、というのが昨日の番組の趣旨でしたが・・・

その情景をテレビで見たとき、ものすごく親しみ深いものを感じて、、、、なんだろ、なんだろ、と追っていったら、対人恐怖の私の頭ん中でした・・・・・・。

「対人恐怖」っていうのは、私の、もう手放したはずの、古いアイデンティティでして、でも、物心ついたときから数年前まで持ち続けていたアイデンティティなので、時折顔を出します。

顔を出すどころか、、、、、手放したのは「アイデンティティ」、自己認識だけであって、中身は変わってないんじゃないかと思います。何年か前のわたしが聞いたらがっかりするかな。

それまでは、対人恐怖の解決に人生のすべてをささげていたので、対人恐怖を解決しようとしなくなったとき、、、「対人恐怖はもう問題ではなくなった!」と決めたときは、すべての問題が解決したかのようでした。。。実際、大きな転機でした。おかげで、人生の他のことにエネルギーを割く余裕ができました。(Webデザイン、キネシオロジー、食べるためではない翻訳、ボディワーク、タロット、、、、、、 そこから、人生にさまよい始めたことは事実・・・人生の一大目標は失ったけれど、新たな目標を定められないまま、、、というか仕事=人生なのか?www視野狭すぎない?ということに今書いてて気づいたよ・・・><)

でも、今も、家から出るのは大変だし、外に出て人がいるところに一定時間身をさらすと、反動で数日眠りこんだりするところは変わっていません。「継続的な」人間関係も苦手なままです。「継続」が難しいために、いろんな人に失礼なことをしてると思います。

まあ、そのことで自分を責めることはしないと決めたから、そのためにさらに落ち込んでいくことはもうないのですが、そういう自分を100%OK!あなたはありのままで素晴らしい!と受け入れられているかというと、違うよね!本当は、自分になってほしい自分はもっと高いところにあるよね、、、、あったよね、、、と思うのです。。。

つまり、対人恐怖はもう問題ではなくなった、というのは、そう自分に言い聞かせてただけ、もう一枚鎧を自分に着せただけで、やっぱり内奥の「自分」にはアクセスしていない、問題を覆い隠しただけだった・・・というのが最近の発見です。

今、そこにアクセスしていく時期なんだと思っています。嘘のない、本当のところへ。




「総構え」のイメージは、家から出られないときの頭の中です。

総構えの外郭は家です。家から出るというのは、守りなしで敵地に討ち入っていくイメージ・・・・・・・

って、冷静に考えるとおかしいだろ!という感じなのですが。

そんな中、岡田哲也さんのブログのこの記事で紹介されていた、『皮膚という「脳」― 心をあやつる神秘の機能』という本を読んで、はたと気づいたのです。

この本は、皮膚が、心(脳)の役割を果たしているのでは、ということをいろいろな観点から述べたもの(音叉セラピーとも深く関係する面白い考察が書いてあるからそれについてはまた別途書きたいと思ってる)。

皮膚の最大の機能は防御機能、、、、、皮膚は、「自己と社会の境界線」なんですね。

たとえば、海の魚は、体液の塩分濃度が海水よりも薄いため、皮膚(が変形してできたうろこ)を通して海水が侵入しないように、体内の水分を海水に奪われないように、できるだけ、水分を通さない構造になっているんだって。

自他の境界線。

あー、わたしは、自前の、肌感覚による境界線が弱いのかも。

もし、意識の浸透圧というものがあるのなら、私の皮膚は、ほとんど境界線の役割を果たすことなく、ぜんぶを通してしまっている、、、、、

そういえば、私は身体感覚が本当に鈍くて、どこまでが自分なのか分かっていない感じ。モノによくぶつかるし、よく落とすし、よく忘れてきてしまう。自前の境界線の感覚が鈍っている、というのと重なる(忘れてくるのはADHDの一症状だと思っていたけれど、あえて肌感覚と結びつけるよ、肌に触れていることを継続して意識できない、という意味で)。

逆に言えば、わたしの境界線は「総構え」にあり、という感覚。つまり、「わたし」の意識は茫漠と総構えまで広がっていってしまっている。つまり、人の中にいるときは、自分の境界線(総構え)の中に人をたくさん入れてしまっているということで、ダイレクトに人の意識が自分の中に入ってきてしまうし、それによって疲れ果てる。自分が何を思っているのかも分からなくなる。。。




という気づきが起こる少し前の昨日の昼間、以前のりこさんが「福岡ースパルタと占い 」という記事で紹介されていた、福岡のスパルタ鍼灸院に行っていました。

どんどん脇道にそれていくから、詳しい説明は省くのだけど(いやそもそも、説明できるほど分かってないけど)、私の顎がですね、4歳くらいから発達が止まってる、ということが発覚。

顎の下の方の筋肉について「これ、お母さんの母乳を飲むために必要な筋肉ね。大人になったら必要ない筋肉。でも退化するどころか、どんどん強くなってる」

私は顎を噛みしめてしまう癖が強くて、それを意識して直せないと、顎関節症も治らないよね、、、と半ばあきらめていたのですが、舌の組織が癒着してしまってるんですって・・・・・だから、そこを直さないと、力を抜こうと思っても抜けないよね、という状態なんだとか。もちろん意識も大切だけど、構造上動かないものを、動くように意識だけでもっていくことは難しい、そりゃそうだわ、と。

口を広げる施術は、のりこさんが「治療中、たぶん5回ぐらいは死にました」と書かれているように、もう涙が出るくらい痛かった、、、、、でも、終わったときの爽快感!目が大きい!全身が軽い!身体のこれまで動かなかったところが動く!



あーやっぱり話がそれてしまったけど、4歳。私が一番、生きているのが辛かった頃です。幼稚園は、いじめられるだけで何の希望もなかった。大人になったら何になりたい?と聞かれても、内心、あと何年とか何十年とかこの辛い世の中を生き続けるとかイメージわかねぇ、、、と思ってた頃。

その頃、わたしは、母と一心同体でした・・・・・・。

その頃、、、私が幼稚園でいじめられても、母は私の気持ちにより添ってなんてくれなかったじゃないか!むしろ、母のために、母を悲しませないために、わたしがどれだけ自分を犠牲にして、辛さを隠しとおしたか!という怒りは、成人してから冷静に振り返って出てきた、大人のわたしの怒り。

その頃、当のわたしは、母と一心同体で、幸せでした。

母が感じている焦りや不安や喜びや羞恥心などをすべて、自分のもののように感じて、それを先取りして、母を悲しませない、母を喜ばせることに夢中になっていたし、それがわたしの世界のすべてだったなぁ、、、、、その胎内にいるような安心感を、突然思い出したのでした。いつも見上げてた、若かった母の背中。

母と一心同体でいるとき、自分の肌感覚は不要だった、ということに気づきます。

肌感覚は、狭い、自分のものだから。それをちゃんと感じてしまうと、母が感じる感覚とは違う感覚がそこにあって。それは、感じては、ならない。

どこかで、自分の感覚を封じた瞬間が、あったのだろうな、と思います。

顎の成長が止まると、精神年齢も止まるそうです・・・・・・。わたしの精神年齢4歳だって!と夫に話したら、しみじみ納得されて、私も、悲しいけど、納得なのです。

今、必要なのは、あの温かかった一心同体から自立して、自分の感覚を育てること。ここからが本当の親離れ、なのだと思う。

顎については、鍼灸院の平井先生に助けてもらうとして、今、自分でできることは。
 

自己受容度の低い大学生に、セルフマッサージを1日5分、1週間続けてもらった。その結果、回を重ねるにつれて自己受容度が高くなっていくことがわかった。1ヶ月後には普通の人と同程度までに高まった。
自己受容度の低い人は、普段から自分を大切に思うことが少なく、自分自身の容貌や境遇を受け入れることができていない。

(中略)

施術者である自分自身との関係が、信頼のおける親密な関係になることで、自分自身を信頼して、受け入れる気持ちが養われたのだと思う。

皮膚という「脳」― 心をあやつる神秘の機能 p163


と先ほどの本にあって、すごく納得したのでした。

わたしは、セルフマッサージが続いた試しがないし、自分の肌への働きかけ全般に抵抗があったのですね。いくらキネシで(自分の潜在意識に)勧められようと、やり方を習おうと、メイクすることが嫌いで、そもそも肌に何か塗るのが嫌い。リップクリームも、日焼け止めすらも、ガサガサ唇で日焼けしてるほうがマシと思うほど嫌い。。。

なのは、肌、つまり、自前の境界線を意識することへの拒否だったのかも、と。



と同時に、わたしは、「五感」というものを、皮膚とは独立したものとして、扱ってきたように思います。(あ、触覚は皮膚だと分かるんだけど)たとえば、音は、耳で。光は、目で。自分の周囲の景色を、小さな開口部から覗き見てた。それがわたしにとっての世界のイメージ。音を聞くとき、光を見るとき、肌は単なる壁。

でもこの本は、皮膚は音も感じるし(脳に伝わって知覚するということではなくて、皮膚自体が感じる。耳には聞こえないような周波数域の音も含めてね)、光も色も感じるといいます。盲目であったヘレン・ケラーは、色の違いと濃淡を、指先で感じることができたのだそうです。

鍼灸師の竹村 文近さんは『響きあう鍼灸』で、「どこに鍼を打てばいいかは暗記した人体図で決めるものではない。極論すれば、手に目がついてさえいれば、ツボなど覚える必要はないのだ」と語っています。



みちよさんのクラスを受けたときに、五感を使おうという宿題があって、大好きな深大寺温泉に浸かりながら、キラキラ光る水面、木漏れ日、揺れる葉っぱ、降り注ぐ水の音、、、を見ました、、聞きました、、、えーっと、一応感じました、けど、五感使うってこれで合ってますかね?と思ったことを覚えてる。

昨日、お風呂の中で、自分の「触覚」であえて水を感じようと意識してみたら、これまでにない深いリラックス感を得ました。みちよさんが言っていた五感というのは、コレだったのかもしれないと思いました。。。

わたしは五感を感じる中心が脳にあると無意識に思いこんでいて、すべての感覚を脳でとらえようとしていました。でも、触覚でダイレクトに感じる、音も光もって、それはとても大きなヒントかもしれない。

触覚は、目などと違って、錯覚が非常に少ないのだそうです。つまり、騙せない。脳で一元管理していないからこそ、騙せない。嘘をつけない。

触覚を使っていくことは、嘘をつかないことにもつながるかもしれない。



そういうわけで、すごく長くなったけど、自分の肌を触ることで、触覚を意識することで、自前の境界線を育てていけるかもしれない、やってみよう!という記事でした!

 
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東京書籍
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(2015-03-20)
コメント:「五感」について重要な気づきを与えてくれた本

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