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福岡&遠隔でヒーリングもやっています

キネシオロジーで得られる情報について今思うこと

キネシオロジーで出る情報とどう付き合っていけばよいのか、数年越しでようやく、私なりの結論が出たので、まとめておきます。

 

そもそもキネシオロジーってなんぞや?という方は前回の記事、「キネシオロジーとは」をお読みください。

取る人によって異なるキネシの答え

キネシオロジーで情報を取ることは、物語を読むようなものだ、と、最近思います。

 

同じ本を読んでも、受け取る内容(個人的な感想とかじゃなくて、「あの本にはこう書いてあった!」と「事実」的なものとして受け取る内容)は人によって違います。

 

著者の意図とは違う風に解釈していたり。なぜか一部分が頭に入ってきてなくて「え?そんなこと書いてあったっけ?」となったり。逆に、著者はあえて言葉にしていない部分まで読み取る人もいるかもしれません(それが著者の意図と合っているかどうかはおいておいて、です)。

 

本が読む人によって、受け取る世界が違うように、キネシオロジーも、情報を読む人によって、結果は違います

 

私が筋反射の取り方を習ったとき、同じ人のまったく同じ質問を、みんなでそれぞれ筋反射で聞いてみる、という実験を先生がやらせてくれました。結果は見事に違っていました。

 

なぜそうなるかというと、筋反射を取られる側の潜在意識と、筋反射を取る側の潜在意識の共通項(お互いの集合の公約数のような感じ)が反応として上がってくるからです。

 

だから、筋反射に「正しい」答えも「間違った」答えもないのです。

 

(仮に「あなたは男性ですか女性ですか?」というごく単純な問いを立てたとしても、肉体的には女性だが内面的には男性、というように、そのとき見ている世界、フォーカスしている文脈によって答えは変わってきます。そもそも、ある問いに対して「正しい」答えがあるというのが幻想なのでしょう)

 

私の失敗。キネシに振り回されて

本来、筋反射は、ただ、「今この瞬間、私にはこう読めました」、というだけのものであって、「正しい/正しくない」「良い/悪い」という意思決定、価値判断とは、相性があまりよろしくないのではないか、と今は思っています。Yes/Noと一見「デジタル風」に結果が出るから惑わされそうになるのですが。

 

私はここ数年、キネシオロジーで得られる情報の扱い方にずっと悩んできました。体当たりで。

 

「最適な判断がすでになされているのだから」(←あとで書きますが危険な思い込み)あとは私が行動するだけだと思い、キネシで「やるといいよ!」と出てきたことを片っ端からやろうとしてみましたが、心が付いていかずに投げ出す、というような挫折を数え切れないほど経験しました。

 

やったほうがいいと分かっているのに、なぜできないんだろう。「正しい」道を選んだはずなのに、なんでうまくいかないんだろう、などなど、散々迷走して、ようやく最近気がついたのですが、とっても単純な話でした。キネシの情報を鵜呑みにした選択をしてるとき、私は、自分がやりたいことをやってなかったんです。

 

いや、キネシの情報を鵜呑みにしよう、という「選択」自体が確かにわたし自身の選択であり「やりたいこと」なんですが、、、

 

たとえば、「絵を描くといい」という情報が出て「絵を描く」というのは、「絵を描きたいな」と思って「絵を描く」というのとは決定的に違います。その選択している物事自体に内からの欲求が働いていないのです。じゃあ、欲求はどこにあるかというと「自分の人生を良くしたい」「良かれという選択をしたい」という強烈な欲です。裏返すと、今の自分は良くない、不完全だ、という自己否定、欠乏感ですね、、、、、、

 

ちょっと分かりづらいんですが、キネシオロジーで出てくる情報は、確かにある意味、「内」から出てきているものに違いないのですが、キネシオロジーを介して「情報」として聞いたという時点で、「外」からの情報になってしまっているのです。


こんな風に、自分の内側の欲求は無視して、キネシオロジーの情報に過度に頼ることは、自分の価値判断を「外」のものに委ねてしまうということで、つまり、自分の力を明け渡してしまうということ。

 

そうなると、「自分の心の声を聞いている」という大義名分の下で、その実、自分の中心にある軸からどんどん離れていき、外側の力に振り回されていきます。これは、癒しの正反対で、非常に危険な状態です。

 

(特に、私の経験から、自分で自分の筋肉の反射を読む、セルフキネシは、使い方によってはとても危険だと思います。ヒーリングに使うのはいいのかもしれませんが、セルフキネシを価値判断や意思決定のツールに使うのは、まったくお勧めしません。自分の意思を放棄することと紙一重だからです。実体験から言いますが、本当に危険です!)

 

主導権を譲らない

でも同時に、キネシオロジーでなければ知り得なかった情報に触れることで、現実が素晴らしい方向に展開していくこともあります。その違いはどこから来るのでしょう。

 

現時点で思うのは、選択するのは自分と決め、主導権を譲らないことだと思います。キネシオロジーは選択肢を広げてくれ、見落としていたところに光を当ててくれるけど、あくまで、選択するのは自分と決める。

 

「潜在意識からの声」「カラダの声」なんて聞くと、自分より賢い存在のように思えてきますが、、、、いや、自分ですから!(自分がアホだって思い込んでる自分も、聞くとちゃんと答えてくれるその賢い自分もまた自分)

 

うん、おそらく、キネシオロジーで得た情報とうまく付き合うコツは、キネシの結果を、そんな大したものだと思わないことですね。むやみにありがたがらないことです。だって、最初に書いたように、取る人によって結果は変わるものなんですよ?しかも、「今」のスナップショットだから、次の瞬間変わってしまうかもしれない。だからといってまったく意味がないわけじゃなく、そのときその情報を知ることには意味がある(意味をあえて見出すなら)のだと思いますが、自分より上に置いてしまうことから、自分の明け渡しが始まるんです。

 

キネシオロジーの結果は所詮人が「読んだもの」だから二次情報です。そのソースは、自分そのもの。たとえ意識にはのぼっていなくても、自分の感覚の方がおおもとであり、本物です

物語を読み、物語を超える

最初に書いたように、キネシオロジーで読むのは「物語」だと思います。

 

不幸と感じるとき、私たちは自分の中の物語に無意識に囚われてしまっています(セルフキネシで情報を取るのが危険だと思うのは、その物語はとってもリアルに見えるので、1人でやると物語に取り込まれてしまう危険性があるから)。

 

最近、私は、キネシオロジーを通して、私が読んだ物語をお話しすることによって、「あ!そういうことだったんだ!」という、その人の内側の気づきを促し、その物語から抜けるようなセッションをしていきたいんだ、と気づきました。

 

そう、何かの拍子ではっとそれに気づくと、物語の存在に気づくと、物語から抜け出して、自由になることができるのです。

 

以前、キネシオロジーを中心にセッションしていたとき、私は、私がセッション中にやることを選ぶためにキネシオロジーを使っていました。つまり、来てくれる方を、私からの何らかの施術が必要な、癒しが必要な人として見ていて、最適な施術をするために、キネシを使う、という態度でした。

 

でも、今は、「私が何かやること」が癒しを起こすという前提自体が違う気がしています。癒しを起こすのはその人自身。私は私が読んだことを伝えるだけでいいんだな、と思います。その中でご本人が気づくべきところに気づいていく、そのために私ができることがあればやらせていただく、そんなキネシオロジーならまたやりたい!と思いました。

 

私たちはたくさんの物語(記憶)を抱えて生きている存在で、それに光を当てることで、ご本人が自分で気づき、物語を抜けて進んでいく、そういうセッションをしたいのだと、ようやく腑に落ちました。

 

去年、フィボナッチ音叉と出会うことができて良かったです。あんなに混乱していた私が、こうやって素の自分に戻ってきたんですから(笑)フィボナッチの音叉には、本当に、本来の自分自身を取り戻す働きがあるのだと思います。

 

だからこそ、今、やっと、この文章を書けています。

 

キネシオロジー自体は、ニュートラルで便利なツールですね。これまで、どうしても私の中にモヤモヤが残っており、100%信頼して使いこなすことができていませんでしたが、これで、ようやく、キネシオロジーと和解できた気がします(またひとつの物語を抜けました)。これからは良いパートナーになってくれそうです^^

 

2017-04-21-Kinesiology

私とキネシオロジー。物語を読み、そこを抜ける!

 

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