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福岡&遠隔でヒーリングもやっています

クリエイティビティのブレークスルーが起こるまで

自分のために「情報」を汲み上げる方法

「やりたいこと」神格化現象の中で

からの続きです。

 

以前、クリエイティビティコンプレックスからの脱出と自己価値という記事を書いたことがありました。2016年5月12日。ちょうど1年前なんですね〜。

 

ここ数年にわたり、クリエイティビティコンプレックスから脱出する道のりを歩いてきて、何度かブレークスルーになる出来事がありました。

 

そのひとつがなかうち佑海さんから、カメラとPhotoshopとの付き合い方を学んだこと。これが大きな第一歩でした。

 

2015年5月1日にこんなことを書いていました。

【カメラと私 その1:カメラを持ち歩けない】

【カメラと私 その2:カメラを持ったライトワーカー、佑海さんとの出会い】

【カメラと私 その3 : カメラは最強の自己肯定ツール!】

(かやの森 鈴は私のクリエイティブ系の活動名です。まだほとんど活用されてませんが・・・)

 

これが写真のブレークスルー。この「0から1」的な進化は本当に大きかったです。

 

そして、最近、若林リアンさんから絵とのコミュニケーションの方法を学んだことで、第二のブレークスルーが起こりました。

 

写真のときは、すぐに分かるような変化があって、ひたすら楽しかったけれど、今回はブレークスルーはなかなか起こらなかったし、今やってることが何につながっているのか、私は本当に自発的に絵を描きたくなるのか、(今思えばですが)長い間分からないままでした。

 

もちろん、毎回楽しくやってはいたんですが、12回っていうカリキュラムがあり、前払いしてあったので、途中長期の休みをいただきながらも続けられた、というのが大きかったです(本来、3ヶ月くらいで終わるはずのものを、1年かけてやりました)。

 

ブレイクスルーが起こったのは、レッスンを始めてから実に1年以上経ってからでした。

 

思えば、リアンさんとの1年間は、私にとって「欲求のないところに絵を描くのに慣れる」プロセスでした。

 

頭の中になんのビジョンもない、描きたい気持ちもわいてこない、けれど、宿題だから描く、という、、、、、、、(汗)

 

リアンさんのワークって、最初の段階では、目をつぶって描くところから始めるんですよ。(すでに頭の中にある完成形を)きちんと描く、みたいな思い込みをぶっこわすことから始まるんです。
 
私には描きたいものがないんですから、リアンさんのやり方は好都合でした。

 

このやり方だから「何でもいいからただ描く」ことへのハードルはぐぐっと下がるのですけど、意味のあることをやりたい、やることによって価値を得たいタイプの私にとっては、しんどい作業でした。

 

特に、醜い絵(自分的にね)と向き合うのは嫌でした。

 

佑海さんが、写真で教えてくれたようにね。気に入らない写真を何枚撮ったっていいように、どうしようもなく下手くそな絵を何枚描いたっていいんですよね。その中で気に入るのが数枚あれば、全然いい。。。はずなのに。

 

たぶん、、、ダメダメな写真を何枚撮ってもOK!と思えるようにはなっていたけれど、あくまでもそれは、その中から「いいもの」が出てくるなら、という条件ありきだったのかな、と思います。

 

価値を、選び抜いた「いいもの」にしか置いてなくて、撮るプロセスそのものを楽しむ境地にはまだ達していなかったんですね。ここからも、自分の目標達成型思考が透けて見えます。

 

駄文をいくら書いても自分の価値は下がらないように、本当は、ぐっだぐだな絵を何枚描いても自分の価値は影響を受けませんね。それが体感で分かるのに、結構時間がかかりました。

 

これは、私が子どもの頃、「評価されるため」、つまり「自己価値を得るため」にしか絵を描いてなかったからだと思います。写生などは得意でよく表彰されていたけれど、学校から与えられた課題以外で絵を描きたいと思うことはありませんでした。高校では美術を取らなかったので、高校以降、絵を描くことはなくなりました。

 

今回も、課題という形で出されるから、どうにか描くことができたのですね。最近まで、絵を描くのはリアンさんとのアポイントの数時間前だけでした(滝汗)「失敗」しても、描き直すような時間はないですから、自分では到底認められないような絵をリアンさんに見せるわけです。

 

ジェネシスカード

若林リアンさん開発のジェネシスカード

厚みがあって、絵の具が飛んじゃったりしてもすぐ拭けば平気な頑丈さ。絵と一緒にワークするのにぴったりなのです。

 

でも、リアンさんの「目」を通して見ると、毎回、その、描きたいことも何にもなしに、わけもわからず、でたらめに描いたものの中に、びっくりするほど「私」が露呈している、ということに気づかされるのです。描いた絵を見せたときのリアンさんの「リーディング」は怖いほどです。え・・・なぜ、それが分かるの・・・?と。それは絵のうまい下手とはまったく別次元でね。

 

それを12回以上繰り返しました。

 

それで、私、最近ようやく分かったんです。
 
クリエイティブになるために「作りたいものが分かっている」必要はない!ということを。
 (かなり語弊がある言い方です。そもそも誰もがすでにクリエイティブであって、「クリエイティブになろう」とすること自体がおかしいです。「描きたいものもない」「描いた絵を見ても何も読み取れない」そういう自分でも、リアンさんの目を通してみれば――つまり、見る目さえ変えれば――雄弁に自分を表現していた、すでにクリエイティブだった、ということを言いたいのですがうまく伝わるかな?意識で分かってなくても、無意識で完璧に分かっている、そういう自分は相当クリエイティブですよ?)
 

リアンさんとの1年間は「自分から生まれるものと向き合う」プロセスでもあったのだと思います。それはすなわち、「いい」自分だけじゃない、闇もヘドロも含めた、ありのままの自分を見ることそのものでした。

 
1年と数か月たった最近になって、初めて、文章を書いて自分でどんどん内側と対話していくのと同じように、自分で絵とコミュニケーションする感覚が掴めてきています。それまではレッスンでリアンさんの目をお借りしないと気づけなかった、自分の絵に潜んでいる無意識のメッセージに、自分である程度気づける感覚が、1年かけてやっと育ってきてくれたんです。


そうなると、俄然、絵を描くのが楽しくなってきました。

 

私が駄文をいくら書いても平気なのは、書いたプロセスそのものに意味があって、それによって自分の心の中に生まれている「何か」に価値を見出しているからです。心とのコミュニケーション手段としての役割を立派に果たしているから。絵も同じになりました。

 

急に、絵を描くことが特別なことではなくなり、文章と同じ自分との対話「ツール」となり、ただその時々のアウトプットであるだけのものに格下げされ、私にとって人に見せるためのよそいきではなく、自分で使う日用品になりました。

 

「あ、書こう」って思うのと同じように、「あ、描こう」と思うようになっていました。つまり、「描きたく」なっていました。


あれ、「やりたいという気持ちが出てこない」のが私のコンプレックス、でしたよね?

 

すでに解消されてるではないですか!!!

 

 

 

「書きたい・描きたいことなんてなくていい」「書けば・描けば何か出てくる」

 

これが、私にとってのクリエイティビティ、第二のブレイクスルーでした。

(もちろん、書きたい・描きたいことがある人はそれをすればいいと思います、あくまで私の場合です!)

 

ここで、やっと、先日の「やりたいこと」神格化現象の中での記事につながってきました。

長くなりすぎるので一旦切ります。まだ少し続きます。

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