自分のために「情報」を汲み上げる方法
キネシオロジーを自分の情報を読むために使うのは危険だと思う、ということを前回の記事で書きました。
それでも、潜在的な自分が何を望んでいるのかを知って日常に活かしたいなら、セルフキネシを使うより、直接つながることをオススメします(というより、元々つながってるんですけどね!)。
潜在意識とつながるって、特別なスキルがいることだと思い込まされているところがあるのですが、、、実は、本来、みんな普通にやっていることじゃん、、、、、、と最近思うようになってきました。無意識でやっている、つまり、意識的にやっていないために、その価値を過小評価しているだけなのでは、と。
「潜在意識とつながる」とわざわざ目的化するから、つながるのが難しいように思えてしまうだけであって、私たちは元々「つながっています」。そういう目で見る、と意識を切り替えさえすれば、ですが(結局、どういう目で見るかがすべてですね?)。
(うーん、「潜在」というから「見えない、隠れている」ほうに意識がいくのか。大嶋信頼さんの使っている「無意識さん」のほうがしっくりくるので、ここからは、そう呼ぶことにします。)
まず、多くの人が普通にやっていて、実際効果がある方法が、頭の中に出てきたことをひたすら書く!ということだと思います。私も、無意識に子どもの頃からやっていました。
あることを書こうと書き始めて、書いているうちに、「あ!私、こんなことを思っていたんだ!」と発見してまったく別の結論になる、ということもよくあります。
それこそが、自分の情報を無意識から汲み上げるプロセスそのものだったんだんですね。長らく、見落としていました。「私にとって、書くことは排泄行為だ」とよく言っていました。書くことで気持ちよくはなるけれど、ただそれだけのものだと過小評価していました・・・。
自分の中から出てきた気づきは、どうしてか「人から言われたこと」よりも価値がない気がしていたんですね〜(逆です!!!)。
文章だけではなくて、絵でも同じです。
むしろ、文章は私にとって身近すぎて、その価値を見出すことが難しかったのですが、ここ1年、12回にわたって若林リアンさんのワークを受けて「絵を描く」→「描いた絵から情報を受け取る」→(もし変えたいところがあるなら絵に加筆するか描き直す)→「あれ、現実に反映されてる!?」というサイクルを何度も回すうちに、絵を描くことで現実がリンクして動く、というのが当たり前になり、、、でもそれは特別なことじゃなくて、文章でもまったく同じことをこれまでもずっとやってきてたやん、私、、、ということに最近気づきました。。。
たとえば、前回の記事のこの絵は、「『私とキネシオロジー』について描く」ということを決めて描き始めました。キネシオロジーについて長年の迷いが晴れてスッキリした!!!という感覚はあったものの、ブログにまとめるには十分に言語化・意識化されきっていない感じがあったので、もっと情報をもらいたい、分かりやすく見せて!という意図をもって描きました。
「キネシって、本を読んでいる感じだな!」という気づきだけは、この絵を描く前に来ていたので、まず本を描きました。描きあがった本を見ていたら、なんとなく扉を付け足したくなって、扉を描きました。扉を描いたら、道を描きたくなりました。
この時点ではまだ、「物語を抜ける」という発想は意識化されていませんでした。できあがった絵を眺めていたときに初めて、「あ!物語を読んで、それを抜けるのか!」と気づいたのです。
これはかなり分かりやすい例で、もっと繊細で分かりづらいことも多いですが、そういう目で見さえすれば、私たちは絵を通しても無意識さんとコミュニケーションできます。
このことは、<創造性><クリエイティビティ>に関する私のブレークスルーでもあります。すごく大きく、嬉しい変化なのですが、長くなるので、それについては、また別の記事で書きますね。リアンさんに感謝!
無意識さんとのコミュニケーションは実は簡単で、私たちが「何か」を生み出せばその中に必ず、無意識さんが現れている、、、ことを信じ、自分が生み出した、どう見たって臭いう○こにしか見えないやん!というガラクタを、無意識さんからのメッセージなのだと信じて(アホみたいに思えますがそれでも)、読もうとする目を持ちさえすばいいらしいですよ?
「見えない」と思っているうちは見えない、これもまた真実で、とてもよく分かるのですが、分からないなりにとにかく数を重ねれば分かるようになるみたいです(経験者は語る・・・)。
そして実は、文章や絵に限らず、「そういう目」で見さえすれば、実は私たちの身の回りにあるもの、起こる出来事、感じることなどなどすべてを通して、無意識さんとのコミュニケーションは可能なのだと思います。
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ここまで書いて、今私が言いたいことは、以前、大好きで何度も読んだ本、『あるがままに生きる』で足立幸子さんが語られていたことそのもの(そのごく一部・・・)だと気づきました(奇しくも若林リアンさんはこの本の英訳版の編集者でもあります)。
何年も前、何度も読んだけれど、「自分にもできる」ところまではどうも消化できずじまいだったこの本。今、久しぶりにパラパラめくってみたら、共感できるところがずっと増えていました。
本って、読んで理解するだけで、ポーンとその境地にたどり着けることも中にはあるけれど、手を動かして、心を動かして、ようやく消化できることもありますね。