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福岡&遠隔でヒーリングもやっています

「やりたいこと」神格化現象の中で

<クリエイティビティ>の話の続きです。

 

私には長年、コンプレックスがありました。

 

「やりたいことがない」ということです。

 

それは、<クリエイティビティ>のコンプレックスでもありました。

 

「書きたい」「描きたい」「作りたい」「演奏したい」などの欲求が先にあって、それを表現するのが<クリエイティビティ><創造性>なのだと、ずっと思い込んでいたからです。

 

だから、「これを描きたい!」とか「この曲を演奏したい!」などの情動・欲求がほとんどわいてこない私は、どう考えても「創造性がない」のだろうと思っていました。

 

普通、クリエイティビティのコンプレックスって言うと、「絵が下手」みたいな、スキル的なコンプレックスだと思うじゃないですか。私もずっとそう勘違いしてたんですけど、私が本当にコンプレックスを感じていたのはそこではなかったってことに、最近になって気づきました。

 

絵が下手だとか、それ自体に別にコンプレックスはありませんでした・・・だって、そもそも、絵を描きたいとか思ってないのですからね・・・。

 

期せずして、ここ5〜6年くらい、この<クリエイティビティ>コンプレックスについて掘り下げ、とことん向き合う流れになりました。

 

きっかけはhidaさんのキネシオロジーで取ってもらったメッセージでした。メイクやお洒落をするといいよー、Webデザインやるといいよー、みたいなメッセージ。最初は8年くらいも前になりますね。継続して出てくるのです。

 

メイクも服も嫌いだし、デザインするとか意味分からないですよ、やりたくない!って思うことばかり。

 

あ、ほんとは、嫌ならやらなきゃいいだけですよ。でも私は素直で貪欲なので(笑)、「潜在意識がそんなにオススメだって言うならやる!」とやろうとしたわけですね。ちなみに、メイク・お洒落・アートは私の中では自己表現という意味で同一カテゴリです。

 

やり始めたときは、こんなに深いところにつながってるなんて、思いもしなかった!!!

 

キネシオロジーで出てくる、潜在意識が勧めてくることって、やりさえすればすぐ、「わぁ、これまで興味なかったけど、楽しい!!!」みたいになるんじゃないか、みたいに思っていました。甘かったです。潜在意識が本当は私に何をやらせたかったのか、いや、何のためにそのメッセージを出してきていたのか、気づくのに8年かかりました。

 

メイクが好きになりたくて、服が好きになりたくて、まずは、いろんな人にいろんなコンサルやレッスンを受けました。合う服の色やかたちを診断してもらったり、買い物同行で選び方を教えてもらったり、メイクのテクニックを習ったり、オススメのお高い化粧品を買い集めたり、、、、、、たしかに、それぞれ効果はあったけれど、ただ知識や技術を教わっただけでは、抜けられない壁がありました。

 

デザインもそうです。一通りの”やり方”は分かったけれど、デザインばりばりやるぞー!って感じにはどうしてもなれずにいて、それもモヤモヤ。

 

あなたの美をさまたげている心のブロックを解消!みたいなヒーリングセッションも受けたけど、ブロックの解消については、結局、インナーチャイルドを癒す、というようなもので、私が期待していた効果は得られませんでした(そのときは自分が何を求めているのかも分かっていなかったけれど)。

 

何をやっても、とりあえず一通り、やり方が分かってきたところで、壁にぶつかるのでした。

 

ようやく、私は、どうしようもない事実に目を向けることになりました。

 

結局、やり方が分かったって、自分の中にそれを「やりたい」という気持ちはわいてこない、っていう事実です。

 

これを描きたいという気持ち。

こういう装いをしたいという気持ち。
こういう顔にメイクアップしたいという気持ち。

 

そういう、こういう表現をしたい、という欲求が私にはどうもわいてこないのです。

 

「自分の顔のこういうところが嫌いだからカバーしたい」とかのネガティブな動機でも、なんでもいいから、やりたいという気持ちさえあれば、やると思うんだけど、私にはそういうのがないんですよ・・・(欠点がないっていう意味じゃないですよ!)

 

動機がないんだから、いくらテクニックを習っても、やらなくなっちゃうのはしょうがなかったんだなぁ、、、


この悩みをスピリチュアル系の人に言えば、トラウマやブロックがありますね、セッションを受けましょう、ってなる(笑)

 

スピリチュアル界隈では「やりたいことをやりなさい」「ワクワクすることをやりなさい」とよく言いますね。この「やりたいこと」神格化現象の中で、「やりたい」という気持ちが出てこない私は、、、まだ癒しが足りないのではないだろうか、と思わされるのです(笑)


「やりたいこと」が分からないから、動けないんだと思っていました。

 

だからこそ、キネシオロジーとかを使って潜在意識が「やりたい」らしいことを読んでもらったんですよ。

 

やりさえすればいいのかと思ってました。思っていたのに。

 

もちろん、やりさえすれば、それなりに楽しめる、それは分かってる(もしくは努力して分かるようになった)。

 

でもさ、どうしたら本当に「やりたく」なるの???

 

特に何も「やりたくない」ところから自分を動かすのってしんどいんですけど?

 

どんどん仮面を脱ぎ捨てて自分になっていけば「ワクワク」ってやつが得られるんじゃないの?そうじゃないの???まだ癒しが足りないの?

 

・・・・・・という混沌とした状態が、長年続きました。

 

何かを「やりたい」という気持ちが、喉から手が出るほど、欲しかったです。

 

そこにブレークスルーが起きた、という話を書きたかったのですが、あまりに長くなるので、一旦切りますね。続きます。

>>> 続きはこちら

 

Twilight in Tsunoshima, Yamaguchi, Japan

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自分のために「情報」を汲み上げる方法

キネシオロジーを自分の情報を読むために使うのは危険だと思う、ということを前回の記事で書きました。

 

それでも、潜在的な自分が何を望んでいるのかを知って日常に活かしたいなら、セルフキネシを使うより、直接つながることをオススメします(というより、元々つながってるんですけどね!)。

 

潜在意識とつながるって、特別なスキルがいることだと思い込まされているところがあるのですが、、、実は、本来、みんな普通にやっていることじゃん、、、、、、と最近思うようになってきました。無意識でやっている、つまり、意識的にやっていないために、その価値を過小評価しているだけなのでは、と。

 

「潜在意識とつながる」とわざわざ目的化するから、つながるのが難しいように思えてしまうだけであって、私たちは元々「つながっています」。そういう目で見る、と意識を切り替えさえすれば、ですが(結局、どういう目で見るかがすべてですね?)。

 

(うーん、「潜在」というから「見えない、隠れている」ほうに意識がいくのか。大嶋信頼さんの使っている「無意識さん」のほうがしっくりくるので、ここからは、そう呼ぶことにします。)

 

まず、多くの人が普通にやっていて、実際効果がある方法が、頭の中に出てきたことをひたすら書く!ということだと思います。私も、無意識に子どもの頃からやっていました。

 

あることを書こうと書き始めて、書いているうちに、「あ!私、こんなことを思っていたんだ!」と発見してまったく別の結論になる、ということもよくあります。

 

それこそが、自分の情報を無意識から汲み上げるプロセスそのものだったんだんですね。長らく、見落としていました。「私にとって、書くことは排泄行為だ」とよく言っていました。書くことで気持ちよくはなるけれど、ただそれだけのものだと過小評価していました・・・。

 

自分の中から出てきた気づきは、どうしてか「人から言われたこと」よりも価値がない気がしていたんですね〜(逆です!!!)。

 

文章だけではなくて、絵でも同じです。

 

むしろ、文章は私にとって身近すぎて、その価値を見出すことが難しかったのですが、ここ1年、12回にわたって若林リアンさんのワークを受けて「絵を描く」→「描いた絵から情報を受け取る」→(もし変えたいところがあるなら絵に加筆するか描き直す)→「あれ、現実に反映されてる!?」というサイクルを何度も回すうちに、絵を描くことで現実がリンクして動く、というのが当たり前になり、、、でもそれは特別なことじゃなくて、文章でもまったく同じことをこれまでもずっとやってきてたやん、私、、、ということに最近気づきました。。。

 

たとえば、前回の記事のこの絵は、「『私とキネシオロジー』について描く」ということを決めて描き始めました。キネシオロジーについて長年の迷いが晴れてスッキリした!!!という感覚はあったものの、ブログにまとめるには十分に言語化・意識化されきっていない感じがあったので、もっと情報をもらいたい、分かりやすく見せて!という意図をもって描きました。

Kinesiology and me

 

「キネシって、本を読んでいる感じだな!」という気づきだけは、この絵を描く前に来ていたので、まず本を描きました。描きあがった本を見ていたら、なんとなく扉を付け足したくなって、扉を描きました。扉を描いたら、道を描きたくなりました。

 

この時点ではまだ、「物語を抜ける」という発想は意識化されていませんでした。できあがった絵を眺めていたときに初めて、「あ!物語を読んで、それを抜けるのか!」と気づいたのです。

 

これはかなり分かりやすい例で、もっと繊細で分かりづらいことも多いですが、そういう目で見さえすれば、私たちは絵を通しても無意識さんとコミュニケーションできます。

 

このことは、<創造性><クリエイティビティ>に関する私のブレークスルーでもあります。すごく大きく、嬉しい変化なのですが、長くなるので、それについては、また別の記事で書きますね。リアンさんに感謝!


無意識さんとのコミュニケーションは実は簡単で、私たちが「何か」を生み出せばその中に必ず、無意識さんが現れている、、、ことを信じ、自分が生み出した、どう見たって臭いう○こにしか見えないやん!というガラクタを、無意識さんからのメッセージなのだと信じて(アホみたいに思えますがそれでも)、読もうとする目を持ちさえすばいいらしいですよ?

 

「見えない」と思っているうちは見えない、これもまた真実で、とてもよく分かるのですが、分からないなりにとにかく数を重ねれば分かるようになるみたいです(経験者は語る・・・)。

 

そして実は、文章や絵に限らず、「そういう目」で見さえすれば、実は私たちの身の回りにあるもの、起こる出来事、感じることなどなどすべてを通して、無意識さんとのコミュニケーションは可能なのだと思います。

 

***

 

ここまで書いて、今私が言いたいことは、以前、大好きで何度も読んだ本、『あるがままに生きる』で足立幸子さんが語られていたことそのもの(そのごく一部・・・)だと気づきました(奇しくも若林リアンさんはこの本の英訳版の編集者でもあります)。

 

何年も前、何度も読んだけれど、「自分にもできる」ところまではどうも消化できずじまいだったこの本。今、久しぶりにパラパラめくってみたら、共感できるところがずっと増えていました。

 

本って、読んで理解するだけで、ポーンとその境地にたどり着けることも中にはあるけれど、手を動かして、心を動かして、ようやく消化できることもありますね。

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キネシオロジーで得られる情報について今思うこと

キネシオロジーで出る情報とどう付き合っていけばよいのか、数年越しでようやく、私なりの結論が出たので、まとめておきます。

 

そもそもキネシオロジーってなんぞや?という方は前回の記事、「キネシオロジーとは」をお読みください。

取る人によって異なるキネシの答え

キネシオロジーで情報を取ることは、物語を読むようなものだ、と、最近思います。

 

同じ本を読んでも、受け取る内容(個人的な感想とかじゃなくて、「あの本にはこう書いてあった!」と「事実」的なものとして受け取る内容)は人によって違います。

 

著者の意図とは違う風に解釈していたり。なぜか一部分が頭に入ってきてなくて「え?そんなこと書いてあったっけ?」となったり。逆に、著者はあえて言葉にしていない部分まで読み取る人もいるかもしれません(それが著者の意図と合っているかどうかはおいておいて、です)。

 

本が読む人によって、受け取る世界が違うように、キネシオロジーも、情報を読む人によって、結果は違います

 

私が筋反射の取り方を習ったとき、同じ人のまったく同じ質問を、みんなでそれぞれ筋反射で聞いてみる、という実験を先生がやらせてくれました。結果は見事に違っていました。

 

なぜそうなるかというと、筋反射を取られる側の潜在意識と、筋反射を取る側の潜在意識の共通項(お互いの集合の公約数のような感じ)が反応として上がってくるからです。

 

だから、筋反射に「正しい」答えも「間違った」答えもないのです。

 

(仮に「あなたは男性ですか女性ですか?」というごく単純な問いを立てたとしても、肉体的には女性だが内面的には男性、というように、そのとき見ている世界、フォーカスしている文脈によって答えは変わってきます。そもそも、ある問いに対して「正しい」答えがあるというのが幻想なのでしょう)

 

私の失敗。キネシに振り回されて

本来、筋反射は、ただ、「今この瞬間、私にはこう読めました」、というだけのものであって、「正しい/正しくない」「良い/悪い」という意思決定、価値判断とは、相性があまりよろしくないのではないか、と今は思っています。Yes/Noと一見「デジタル風」に結果が出るから惑わされそうになるのですが。

 

私はここ数年、キネシオロジーで得られる情報の扱い方にずっと悩んできました。体当たりで。

 

「最適な判断がすでになされているのだから」(←あとで書きますが危険な思い込み)あとは私が行動するだけだと思い、キネシで「やるといいよ!」と出てきたことを片っ端からやろうとしてみましたが、心が付いていかずに投げ出す、というような挫折を数え切れないほど経験しました。

 

やったほうがいいと分かっているのに、なぜできないんだろう。「正しい」道を選んだはずなのに、なんでうまくいかないんだろう、などなど、散々迷走して、ようやく最近気がついたのですが、とっても単純な話でした。キネシの情報を鵜呑みにした選択をしてるとき、私は、自分がやりたいことをやってなかったんです。

 

いや、キネシの情報を鵜呑みにしよう、という「選択」自体が確かにわたし自身の選択であり「やりたいこと」なんですが、、、

 

たとえば、「絵を描くといい」という情報が出て「絵を描く」というのは、「絵を描きたいな」と思って「絵を描く」というのとは決定的に違います。その選択している物事自体に内からの欲求が働いていないのです。じゃあ、欲求はどこにあるかというと「自分の人生を良くしたい」「良かれという選択をしたい」という強烈な欲です。裏返すと、今の自分は良くない、不完全だ、という自己否定、欠乏感ですね、、、、、、

 

ちょっと分かりづらいんですが、キネシオロジーで出てくる情報は、確かにある意味、「内」から出てきているものに違いないのですが、キネシオロジーを介して「情報」として聞いたという時点で、「外」からの情報になってしまっているのです。


こんな風に、自分の内側の欲求は無視して、キネシオロジーの情報に過度に頼ることは、自分の価値判断を「外」のものに委ねてしまうということで、つまり、自分の力を明け渡してしまうということ。

 

そうなると、「自分の心の声を聞いている」という大義名分の下で、その実、自分の中心にある軸からどんどん離れていき、外側の力に振り回されていきます。これは、癒しの正反対で、非常に危険な状態です。

 

(特に、私の経験から、自分で自分の筋肉の反射を読む、セルフキネシは、使い方によってはとても危険だと思います。ヒーリングに使うのはいいのかもしれませんが、セルフキネシを価値判断や意思決定のツールに使うのは、まったくお勧めしません。自分の意思を放棄することと紙一重だからです。実体験から言いますが、本当に危険です!)

 

主導権を譲らない

でも同時に、キネシオロジーでなければ知り得なかった情報に触れることで、現実が素晴らしい方向に展開していくこともあります。その違いはどこから来るのでしょう。

 

現時点で思うのは、選択するのは自分と決め、主導権を譲らないことだと思います。キネシオロジーは選択肢を広げてくれ、見落としていたところに光を当ててくれるけど、あくまで、選択するのは自分と決める。

 

「潜在意識からの声」「カラダの声」なんて聞くと、自分より賢い存在のように思えてきますが、、、、いや、自分ですから!(自分がアホだって思い込んでる自分も、聞くとちゃんと答えてくれるその賢い自分もまた自分)

 

うん、おそらく、キネシオロジーで得た情報とうまく付き合うコツは、キネシの結果を、そんな大したものだと思わないことですね。むやみにありがたがらないことです。だって、最初に書いたように、取る人によって結果は変わるものなんですよ?しかも、「今」のスナップショットだから、次の瞬間変わってしまうかもしれない。だからといってまったく意味がないわけじゃなく、そのときその情報を知ることには意味がある(意味をあえて見出すなら)のだと思いますが、自分より上に置いてしまうことから、自分の明け渡しが始まるんです。

 

キネシオロジーの結果は所詮人が「読んだもの」だから二次情報です。そのソースは、自分そのもの。たとえ意識にはのぼっていなくても、自分の感覚の方がおおもとであり、本物です

物語を読み、物語を超える

最初に書いたように、キネシオロジーで読むのは「物語」だと思います。

 

不幸と感じるとき、私たちは自分の中の物語に無意識に囚われてしまっています(セルフキネシで情報を取るのが危険だと思うのは、その物語はとってもリアルに見えるので、1人でやると物語に取り込まれてしまう危険性があるから)。

 

最近、私は、キネシオロジーを通して、私が読んだ物語をお話しすることによって、「あ!そういうことだったんだ!」という、その人の内側の気づきを促し、その物語から抜けるようなセッションをしていきたいんだ、と気づきました。

 

そう、何かの拍子ではっとそれに気づくと、物語の存在に気づくと、物語から抜け出して、自由になることができるのです。

 

以前、キネシオロジーを中心にセッションしていたとき、私は、私がセッション中にやることを選ぶためにキネシオロジーを使っていました。つまり、来てくれる方を、私からの何らかの施術が必要な、癒しが必要な人として見ていて、最適な施術をするために、キネシを使う、という態度でした。

 

でも、今は、「私が何かやること」が癒しを起こすという前提自体が違う気がしています。癒しを起こすのはその人自身。私は私が読んだことを伝えるだけでいいんだな、と思います。その中でご本人が気づくべきところに気づいていく、そのために私ができることがあればやらせていただく、そんなキネシオロジーならまたやりたい!と思いました。

 

私たちはたくさんの物語(記憶)を抱えて生きている存在で、それに光を当てることで、ご本人が自分で気づき、物語を抜けて進んでいく、そういうセッションをしたいのだと、ようやく腑に落ちました。

 

去年、フィボナッチ音叉と出会うことができて良かったです。あんなに混乱していた私が、こうやって素の自分に戻ってきたんですから(笑)フィボナッチの音叉には、本当に、本来の自分自身を取り戻す働きがあるのだと思います。

 

だからこそ、今、やっと、この文章を書けています。

 

キネシオロジー自体は、ニュートラルで便利なツールですね。これまで、どうしても私の中にモヤモヤが残っており、100%信頼して使いこなすことができていませんでしたが、これで、ようやく、キネシオロジーと和解できた気がします(またひとつの物語を抜けました)。これからは良いパートナーになってくれそうです^^

 

2017-04-21-Kinesiology

私とキネシオロジー。物語を読み、そこを抜ける!

 

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キネシオロジーとは

キネシオロジーで受け取れる情報って一体なんなんだ!?

どう付き合ったらよいのか!?

ということを、ここ数年間、ずっと考えてきました。

 

ようやく私なりに腑に落ちる結論が出たので、現時点での私のキネシオロジーに対する思いを書いておきますね。


まず、初めての方向けに、「キネシオロジーとは何か」ということから簡単に説明します。

 

キネシオロジーとは、人間の筋肉が、感情などのさまざまなストレスに反応して、本人の意志とは無関係に動く、という性質を利用したテクニックです。筋肉反射、筋反射ともいいます。いわゆるオーリング(Oリング)もその一種です。

 

対象のもの(こと)にストレスがない場合、筋肉に力が入りますが(Yesの反応)、ストレスになる場合、筋肉に力が入らず弱くなってしまいます(Noの反応)。


この反応を利用して、たとえ意識上にはのぼっていなくても、自分にとってストレスなく、スムーズにいくもの(こと)を知ることができます。

 

これは実際にやってみると分かるのですが、たしかに自分の意識とは無関係に起こってしまう現象です。

 

せき歯科でマウスピースを作ったときも、先生は筋反射で私に合うかどうかのチェックをされていました(この記事参照。お、これなら効果ありそう!と思わせる→治療効果が上がるというパフォーマンスの意味合いもあるのかな、と思いますが、それはさておき、意識で「このマウスピースが合っているかどうか」が私には分からなくても、私の意志とは別に筋肉が反応するのです)。

 

キネシオロジーの基本的な原理は以上で、あとは、それを「どのように」利用していくかで、さまざまな流派(?)に分かれています。えりこはどの流派にも属していません。

 

と、これだけでも結構長くなってしまったので、一旦切りますね。

また後日、続きを書こうと思います!

 

2017.04.21 続きを書きました!→  キネシオロジーで得られる情報について今思うこと

 

 

河内藤園(北九州) Kawachi Fuji Gardens in Kitakyushu, Fukuoka, Japan

 

 

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大嶋信頼さんの「ザ・振り回されないカード」おすすめです!

前、​エンパス、HSPを自認する方に大嶋信頼さんの本をオススメする理由の中で書いたこの本が、10万部を突破したそうで、今、本書の内容をまとめた暗示カードが無料ダウンロードできるようになっています!

 

 

『「いつも誰かに振り回される」が一瞬で変わる方法』(すばる舎)

10万部ありがとう! 「ザ・振り回されないカード」

https://goo.gl/forms/36k4NgtA1pkEJGl22

(大嶋さんのブログ記事はこちら。現在リンクが動作していないようです)


友人に教えてもらって早速ダウンロードしましたが、とても良いものだと思うので、取り急ぎシェアします^^

 

自分を「上げる」手段を、道具箱のように常備しておくといいものだな、と最近あらためて感じています。

 

それは、別になんか特別なものじゃなくて、ハサミとか糊とか洗剤とか家電とか、必要なときにわざわざ探したり、買いに行かなくていいように、ちゃんとお気に入りを集めて、必要なときにすぐ取り出せる・使えるように置いておく、ていう感覚です。

 

大嶋さんのテクニックは「言葉」なので、いつでも、どこでもできます。

そう、ただ、必要なときに思い出しさえすれば。

 

最近は、キーワードを本から抜き書きしてiPhoneのメモに入れておいて、必要なときに見る(唱える)という使い方をしています。基本、必要なときですが、車の運転前は必ずやるようにしてます(車の運転は私にとってまだ非常事態なので・・・でもそのおかげで、思い出す良いきっかけになっている気が)。今回のカードも写真メモとしてiPhoneですぐ見られるようにしておくつもり。

 

といっても、本当に本当に必要なとき(ザ・振り回されてるとき!!!)の渦中はそういうものを見ることすら思い出さないんですけどね。行き着くところまで行くこともたぶん必要。「あ!わたし振り回されてる!!!」って認識できるから、自分に戻れるのでもあるしね。

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